横浜市の古民家カウンセリングスペース

山手カウンセリングルーム

カウンセリング風景

2019.04.20 

カウンセリング風景

カウンセリングの風景
~Client’s Voice~

はじめに
カウンセリングは何をするのですか?カウンセリングを受けるとどんな効果があるのですか?
お問い合わせでそう訊ねられることは少なくありません。
でも、実はそれほど簡単に答えられるものではないように思います。
まして山手カウンセリングルームは精神分析的指向性をもつカウンセリングルームですから、すぐにお悩み解消!簡単に癒されます、治ります、などと言えようはずもなく…。
1回1回のセッションは長年心に絡みついていた気持ちや心の奥底に眠っていた想いを、その方とご一緒に探し出してゆく宝物のような時間。
その人との丁寧にじっくりと関わるなかで、紡ぎ出されてゆく言葉の持つ力を信じつつ…。

セッションで紡がれた言葉はその時だけでなく、年月を経てはじめて理解されることもあるのですから、カウンセリングを受けている方自身がカウンセリングを語ることは相当な力業と思います。
それでもやはり、精神分析的カウンセリングをうける体験というのがどういうものか、関心がある方も少なくないであろうという想いや、実際にお受けになっている方からの声かそれを一番伝えるのではないだろうかという想いから、実際にはかなり躊躇いつつ、お越しくださっている方に「決して無理はしないで、もしよろしければご自身の振り返りを兼ねて…」と前置きをしてお願いしてみました。
お一人お一人のカウンセリング体験はその方だけの宝もの…
それにもかかわらず、ご自身の体験を精神分析的カウンセリングを理解するための手引きとしてお分かち下さった方々に心から御礼申し上げます。

風景1:背面法のセッションから(女性・50代)

かけがえのない あなたの人生だから…。

背中越しに響く声に温かな涙が私の頬を伝います。
「生きていていいんだ」と感じる瞬間が、今日も訪れました。

「あなたがいたから私は幸せになることが、できなかった」

いくつものトラブルを抱え、悩んでいたであろう母の言葉は、幼かった私には、まるで自分の存在を否定されているかのようにしみ込んでいました。
存在に値しない人間などいないはずなのに、罪悪感は、付きまとい続けます。罪悪感は、私の心を打ちのめし、行動することを妨げます。行動できない自分をまた、さげすむといった悪循環の中でもがいている時、通っていた心療内科のドクターにカウンセリングを受けることを勧められました。
「辛いと感じていることを話してどんな良い変化が、あるというのだろうか?」猜疑心でいっぱいの私でした。でも、胸が痛くなるほどのこの辛さから解放される術を教えてもらえるならば・・・と最初のセッションに向かいました。

カウンセリングを受け始めておよそ8ヶ月。私の人生は、変わりつつあるかも知れません。
振り返ると、うずくまったままの幼子が上を向いて「助けてぇ」と わめいていたような自分を感じます。
今、「ちょっと立ってみよう」と自身の成長に気付き始めた私を見つけます。

いつもの曜日と時間と空間で自分のことに思いをはせてくれる人と話をする。
困ったこと、うれしかったこと、迷っていること。こんがらがった感情の糸をすこしずつほぐしていくようなやり取りは、私の求めているものの輪郭をゆっくりと見せてくれるかのようです。
その感覚が、私に生きる勇気をもたらします。
丘のてっぺんに佇む縁側のある家までは、急な坂を登り続けなければなりません。たどり着いた時に見える景色は、遠くを見やる心地良さに気付かせてくれます。それは、生き方のレッスンにたどり着いたごほうびかも知れません。

風景2:対面法のセッションから(女性・40代)

うつ病で心療内科を通院しましたが、そのまま仕事を退職。ゆっくり自分と向き合う時間がほしいと思い、初めてカウンセリングを受けたのは、もう一年以上前になります。心療内科の先生からは投薬治療を受けていましたが、薬の量も症状も良くも悪くも安定してきて「薬で治せるのはここまでかな?」と思ったのがカウンセリングを受け始めたきっかけでした。

原則週に一度で行われるカウンセリングは、今までの人生を振り返り、これからの人生をどうすごしていくかを考える時間となっています。つらかった経験もカウンセラーに話すことで客観的に見られますし、自分を受け止めること、今まで思っていなかった視点から自分を見直すことができます。

山手の丘の上にあるカウンセリングルームでは、ゆっくりと時間が流れる古民家から自然を眺めるなかで、くつろいでカウンセリングを受けています。

風景3:背面法のセッションから(男性・40代)

山手カウンセリングルームのセッションでわたしに体験され感じられた時間は、とても豊かなものです。自分を抱え上げられる自分を、ひとりぼっちではなく模索できるからです。

わたしのセッションは、ソファーに座り先生の姿を見ずにする、背面法でされます。これは初回インテーク時に先生に薦めて頂きました。わたしは迷わず先生の提案に従いました。なぜなら、多分わたしはコミュニケーションを操作しようとするから。この方法は先生の表情を見ずにお話するので、わたしが話す時の作意を弱めてくれると思いました。実際、とても素直にお話できていると感じています。

ソファーのうえでわたしは、前回セッションから一週のあいだの、できごとや、巡らせた思いや考えや、言葉にできる場合は感情を打ち明けてゆきます。わたしも先生も、求めているのは単なる慰めではない。だから、先生に守ってもらいながら、わたしはわたしの姿を確認してゆきます。その時の自分にできる範囲内で。
わたしがわたしの姿を確認してゆくのは、わたしがわたしの命をより善く活かす必要があるからです。人の尊厳を粗末にしてはいけないと思いますし、それは、対象が自分でもそうですから。だから、深く確認してゆく事は冒険であるのだけど、しないわけにはゆかない。特にわたしは、自覚的な範囲の動機としては、罪と向き合う為にセッションに通い続けていますから。

加えて、前述の動機とどう関わっているかは別にして、具体的な課題として、家事などの日常行動の停滞が、自分にとって最も目に見える問題です。虚脱的な状態で、目の前の具体的な生活をなかなかこなしてゆけないのです。それに、その事自体を明瞭に意識化し続けられない。
ですから、自分の内側の、沢山の見えない部分を確認してゆく必要がある。それらは、多くの場合、わたしのなかで開発されていない、未開の部分です。週に1度のセッションで、それらに分け入るわけです。
内面に分け入ってゆく事は、必要なだけでなく、わたしはそれに魅了されてもいる。だから、週1回のセッションに、わたしは引き寄せられてゆく。でも、分け入ってゆく事も、魅了されているという事も、危険な事でもあります。なぜなら、そこには感情の困難さがあって、実際に不明瞭に見え隠れするからです。
だから、先生と無理の無い範囲内で繰り返し試みる事ができる今のこのセッションのかたちは、その角度から見ても、わたしにとって大切なものです。

玄関をくぐるとすぐのところに、音だけでなく何もかもとても静かな待ち合い室があって、すぐ隣に引戸だけで接しているカウンセリングルームも、玄関のなかから眺める事ができます。週に1回わたしが必ず辿り着いて、自分が生きた時間を確認する場所です。

わたしはこの場所が好きです。なぜなら、得がたい豊かな探究で、自分を抱え上げられる自分を、ひとりぼっちではなく模索できるから。

※上記はいずれも実体験に根ざしたものです。プライバシーはもちろん著作権もございますので、無断での引用、転載を厳にお断りいたします。